懐疑系思考実験

帰り道。思うこと。何でこの電車に乗っているのか?乗る必要性は有るのか?その前に何故移動する必要性があるのか?そもそもこの電車に乗っている人間はこの数、必要なのか?
だいぶ前の思いの中で、超能力とかニュータイプとかでテレパシー的なもので思考の伝達がすごいとかいいなあとか思われたことがあったけど、サトラレみたいに全部が全部筒抜けはどうかと思ったら、今は携帯やメールが存在して、電池さえあれば意思や思考は自分の許容範囲の中で相手に送ることは出来るようになっている。まあ、一目ぼれ的な人間には伝わらないけど、携帯ゲームとかでは通信機能が向上して一定の距離で同じゲームソフトを使っていれば出会うことは容易くなっているけどね。肉体を超えた意思の疎通は大昔に比べて容易くなってきてはいる。それで、世界は変わっているのかどうかは分からない範囲だけどね。
言語≠コトバがあって、思考が可能になっている。無ければ無いで別の方法でやっているとは思うけど、現存の人間は言語≠コトバの範囲内でしかそれは許されない。例えそれがマルチな言語を使用しても変わらないその埒外では何も認められない。言語化されて始めて許されることばかり、で、キチガイになることも許されない。超人とかになっちゃうと、違うか、超人と言う現象を体現するともうそこは人外魔境で人知を超えた存在で我々凡人には何も分からなくなる。ステージが上がると不可知にされるからそこでその人は人としてゲームオーバーになる。残った凡人は時間をかけてそれを微分積分的思考で、線は点の集合とか、0.99999999…は1とか多角形の極限は円だとか何か説明不足で唐突な詭弁を使ってこのコトバで説明しようとして自滅する。我々はその起源から間違っているかもしれないのに。